今回はちょこっとキャンピングトレーラーから離れて、日常の中でふと感じた“娘の個性”についてのお話です。
先日、学校から持ち帰ってきた作品を見ていたら思わず吹き出してしまいました。
虫の絵は驚くほどうまいのにモミジの絵だけ妙に雑(笑)
同じ子が描いたとは思えないほどレベルに差があって「これは絶対ブログに書きたい…」と。
この瞬間、「絵がうまいって何だろう?」という疑問がふわっと浮かんできました。
私は“やることがなくて”絵がうまくなったタイプ
私自身、子どもの頃に特別に好きな遊びがあったわけではありません。
というより、何かやろうとすると親から否定されることが多く、「危ないからダメ」と止められることがほとんどでした。
すると、自然と“叱られずに静かにできること”を選ぶようになってしまって。
その結果、消去法で残ったのが「絵を描くこと」だったんです。
絵なら怒られない。
静かにしていれば何も言われない。
そんな理由で描き続けていたら、いつの間にか“絵が上手い子”として見られるようになっていました。
だから私の絵は、才能というより環境に育てられたもの。
「上達せざるを得なかった」というのが正しいのかもしれません。
娘は“好きすぎて勝手に上達する”タイプ
一方、うちの娘──。
彼女の“虫への愛”は、本当にすごい。
学校から帰ってきて、家族より先に飼っている虫に挨拶することもあるくらい。
だからこそ、虫の絵になると急に本気を出す。
脚の本数、触角の角度、翅脈の入り方まで、細部の描き込みが異常にリアル。
誰かに教わったわけでもないのに、描きたいから描く、それだけで勝手に上達している。
これを見て思わずしみじみしてしまいました。
私は“やることがなくて磨かれた”
娘は“好きで仕方がなくて磨かれた”
同じ「絵が上手い」でも根っこの理由がまったく違う。

気づいたこと:本当に“好きなもの”の前では誰も敵わない
私は昔から絵を描く時間だけなら人並み以上だった自信があります。
でも、娘の虫の絵を見ていると、どうしても勝てない。
夫も同じで、車と電車に限ってはほぼ見ずにリアルに描けてしまう。
そんな姿を見て、気づいてしまいました。
「あ、私は“絵が上手い人”じゃなくて“絵を描く時間が長かった人”だったんだ。」
本当に好きで、心から興味があって、毎日観察している人の絵は練習量だけでは超えられない深みがある。
上手いかどうかよりも
“心の向き先”そのものがその人の表現を形作っているんだと感じました。
興味の差が激しいのは「才能の原石」
うちの娘はとにかく興味の差が激しいタイプ。
- 虫 → とんでもない集中力を発揮
- その他のもの → 5秒で飽きる
- モミジ → ひとまず形にした雑仕上げ(笑)
でも最近、この“偏り”こそが才能なんだろうなと思うようになりました。
人が夢中になれる対象ってそう簡単に見つかるものじゃない。
それを小さいうちから持っているってかなり幸運なこと。
興味の偏りは短所ではなく“芯のある探究心”の表れ。

娘の中に見える“ミニ研究者”の姿
娘の虫に対する集中力はほとんど研究者!?そのもの。
- 種類を覚える
- 特徴を細かく観察する
- 飼育方法を調べる
- 弱った虫を看病する
- 「むしむし日記」に記録を書く
これだけ自然にやっている姿を見ると、
「本人が選ぶなら研究者の道も全然ありだな…」と感じます。
実際、娘は最近「お医者さんより研究者になって虫や人間を救いたい」と話すように。
その未来がどんな形でも心が動く方向に進んでほしいなと素直に思います。(親はお金を貯めるだけ笑)

ごはん屋さんの待ち時間、さっと描き上げてしまう虫の絵。
親として願うこと
別に超難関校を目指さなくていいし特定の道に誘導するつもりもありません。
ただひとつ願うのは、
“好き”を胸を張って追いかけられる大人になってほしい。
そのための土台を今できる範囲で整えてあげたい。
“好き”は人生のエンジンになる。
それが親として実感していることです。
まとめ:この子はこの子のままでいい
興味の差が激しい?
はい、むしろ大歓迎。
虫の絵は天才的でモミジは雑。
そのギャップすらもう愛おしい。
観察眼、集中力、探究心──
全部「虫が好き」という気持ちが育ててくれたもの。
これからも完璧さを求めるのではなく、
親子で気づきながら一緒に進んでいけたら。
そんな気持ちをこめて今日の気づきを書き残しました。
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